1989年に崩壊したベルリンの壁。
2024年11月9日(日)で35年を迎えました。
壁崩壊の舞台となったブランデンブルク門では28年に及ぶ分断の歴史を伝える映像が流され、多くの人が足を止めて見入った。
戦争により同じ国でも東西で分かれてしまったこと、市民が大変な思いをした歴史から学べることはたくさんあります。
今回はベルリンの壁がなぜ建てられたのか、どのようなきっかけで壁が崩壊されたか、その歴史から何を学べるかについてご紹介していきます。
なぜドイツが東西に分裂したのか。ベルリンの壁ができた背景。
東西ドイツが分裂した背景には第二次世界大戦後の大国間の対立が始まりです。
ドイツは敗戦国としてアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって占領されておりそれぞれの占領領域に分かれて管理されることになりました。
しかし、アメリカやイギリス、フランスの「西側諸国」とソ連の「東側諸国」の間で“冷戦”と呼ばれる対立が始まりました。
西側諸国は自由や民主主義、資本主義を重んじる一方で、東側諸国は社会主義や共産主義を進めていました。
この対立で、ドイツにも影響を及ぼし東西2つの国に分かれることになりました。
ベルリンの壁はなぜ建てられたの?
東ドイツは社会主義国家になったことで、政府が厳しく管理する国で、人々は自由に他の国に行くことが難しかったそうです。
対して西ドイツは自由があり、人々が好きなように働いたり生活したりできる国でした。
1961年東ドイツの人たちが自由な生活を求めて西ドイツに逃げようとするのを防ぐため、東ドイツ政府はベルリンという町の真ん中に壁を建てました。
しかし、東西の差によってベルリンの壁崩壊へ市民が動く。 「東ドイツ」の社会主義に市民は不満が募った。
ベルリンの壁が崩されるきかけになったのは、東ドイツの市民の大きな動きがきっかけでした。
1989年11月9日、東ドイツ政府が規制の緩和を発表。
市民たちが自由や改革をお止めて抗議デモを行い「月曜デモ」と呼ばれる毎週大規模デモが開催され続けました。
このような市民の声が高まる中、政府は人々の不満を抑えきれなくなり旅行帰省の緩和を発表。
この発表が「国境を開く」と解釈され、たくさんの市民がベルリンの壁に集まったそうです。
最初は国境を通過するだけでしたが、その後壁にハンマーや道具を持って集まる人も増えて、少しずつ壁が崩されていったそうです。
歴史的な「ベルリンの壁崩壊」から学べることはどんなことか。
東西冷戦の象徴だったドイツのベルリンの壁が崩壊してから35年となる9日、現地では記念の式典が開かれ、市民からは壁の崩壊によって広まった自由や民主主義などの価値観を守っていきたいという決意の声が聞かれました。
戦争をすることについても考えされられますよね。
過去、世界にはたくさんの戦争が行われてきました。
残念ながら、知らないところではまだ戦争が起き関係のない市民が人々が命を落としています。
戦争をしない世界を維持することは難しいですが、自分の国に対しては一人一人ができることが存在すると思っています。
ドイツのように東ドイツの市民がデモを行い、政府に訴え続けたからこそ国境が開けたように「変化は可能である」ということ。
まとめ
今回はベルリンの壁がなぜ建てられたのか、どのようなきっかけで壁が崩壊されたか、その歴史から何を学べるかについてご紹介してきました。
過去の歴史は感慨深いです。
学ぶことが多いですね。
個人的には自国の政治についてもっと勉強すべきだと思いましたし、自分にできること義務であることは積極的に行動していきたいと思いました。
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